2008年11月24日

貴族(Adel)

 中世のブルクは貴族の城である。貴族はゲルマニア時代にすでに存在し、フランク帝国時代は戦争生活者(兵士)を意味していた。兵士には厳しい組織と服従が必要であり、同時に領主であり、気高い奉仕対し領土が与えられた。従者たちには強い結びつきが生まれた。このような発展はメロヴィング朝時代にもう始まっており、カロリング朝時代はより強固なものになった。
 マジャール人といった周辺からの襲撃により、兵士は馬を持っていることが重要となり、決定的になった。農民たちは時間的、経済的に武器を持って馬に乗ることができなくなったからだ。農民たちは税を納めることで兵役を免除された。そして兵士は戦争能力のある者であり、ブルクに住んだ。
 中世の貴族の出自は複雑であった。上流貴族は中世初期の大領主に由来し、国王の側近や管理職に就いていた。中世初期の領主は領主のいない土地を開墾して領主になった。騎士のような臣従貴族は、上流貴族である侯爵の従者に由来し、12世紀に登場した。『騎士(Ritter)』という言葉は『騎馬兵士(Reitersoldat)』を意味し、貴族の称号となり、ブルクとそ小領主が登場した。
 農民は兵役に従事することができず、貴族に隷属するようになっていった。武器を持つことと君主に奉仕することは名声となり貴族の生活に適応していった。戦争奉仕において自由民の貴族と不自由民のミニステリアーレという階級ができた。1200年頃までにミニステリアーレは貴族生活の大部分を請け負うようになった。12世紀は自由貴族とミニステリアーレ間の結婚はまれであったが、13世紀には頻繁に見られるようになった。フリードリッヒ一世赤髭王はミニステリアーレをよりどころにし、フリードリッヒの恩寵に依存する忠実な従者を得た。
【関連する記事】
posted by ぺんた at 09:17| Comment(18) | TrackBack(0) | ドイツ中世の騎士 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月13日

ハルデンブルク(Die Hardenburg)廃墟

 バート・デュルクハイム(Bad Dürkheim)のHardenburg地区にあるブルク廃墟。バート・デュルクハイムとカイザースラウテルンを結ぶ街道上、山の斜面にある。

 城の歴史は、1206年に、シュヴァーベン国王フィリップからベネディクト派修道院のリンブルクを通して、シュパイアーガウの城代の地位をライニゲン伯が就いたことに始まる。まだライニゲン伯はまだ領主ではなかったが、時間が経つうちに所有権が移るきっかけとなる公の権利と権限を持っていた。このような成り行きは、中世世界で封建領主が確立していく上で重要な役割をになう。バート・デュルクハイムとカーザースラウテルンの通行権(税)は城代の重要な収入源であった。
 このようにして収入を得た後、ハルデンブルクは城を建て始め、1214年、ライニゲン伯フィリードリッヒ2世の時に完成した。しかし城の完成は喜ばしいものではなく、土地はライニゲン伯爵のものではなく、リンブルク修道院のものだったので、リンブルク修道院との争いが絶えなかった。だが、これを基にしてライニゲン・ハルデンブルク家は成長していった。

 城の最も頑強な部分はケルンブルクの部分であり、1480年から1550年にかけて増強されたものである。16世紀に外城門がかつての砂岩の深い首型堀の部分に建設した。正門方面は守りが堅くなっており、直径約23mの円塔があり、城壁も6.5mあり、高さは現在でも26mはある。
 切石が15mの広さに広がり、城の古い部分である5mの盾城壁へとつながる。狭い連結路はフォアホフへとつながる。連絡路の途中に窓のない小部屋が2つあり、狭い螺旋階段で上の階へとつながる。小部屋は1725年に伯爵が宮廷として使っていたもの。
 ブルクのフォアホフから南に防御壁が断片的に残る。強大な円塔がのこるが、直径はわずか23mしかないが、壁の厚さは4mあり、攻撃し難い山の急斜面側に立つ。
 主塔は四角い建物で、1510年に建造された際、紋章が取り付けられたており、防御用の開口部が設けられている。現在立ち入ることができない建物は、かつての首型堀の部分を通って西塁壁へとつながる狭い階段通路である。

Die Hardenburg
posted by ぺんた at 21:44| Comment(0) | TrackBack(0) | ドイツワイン街道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月10日

カール大帝の愛娘の恋物語(インゲルハイム宮殿に残る伝説)

 マインツ近郊、赤ワインの町インゲルハイム(Ingelheim)には、カール大帝の宮殿跡がある。カール大帝の息子、ルイ敬虔王(ドイツ語ではルードヴィッヒ:Ludwig der Fromme)はこの地を何度も訪れ、ここで814年に亡くなっている。

 趣き変えて、純愛物語。


 カール大帝は、ワインの産地が近く、景観も美しいこの地を気に入り、ここで数ヶ月をすごした(ただし滞在経験は一度だけ)。 
 大帝とローマ人女性との間に、エマと言う名の娘が生まれ、インゲルハイムで育った。エマには教師を多くつけたが、その中に機密書記官のアインハルトがいた。アインハルトは若い男性で、カール大帝のような堂々とした風格をしていた。アインハルトはあの事件が起こる前までは、無条件に信頼されていた。その事件はアインハルトにとって代償が大きいものとなってしまった。
 エマは母親からしてみればまだまだ子供であったが、その心は火がつきやすく、その炎は藁の火ではなく、燃え上がる炎となっていた。アインハルトは自分の仕える主君の娘であることもあり、すべてにおいて控えめな態度をとっていた。しかし娘が魅力的な女性へと成長するにつれ、アインハルトは気持ちを抑えることができなくなり、日に日に彼女の教師でいることが難しくなってしまった。公の場でアインハルトはエマに対してどう振舞っていいのか分からなくなり、エマもまた分からなくなってしまった。そしてこのことは当然秘密にしておかなければならないことだった。

 ある冬の雪の日の早朝、アインハルトが宮殿の女性の部屋から立ち去ろうとするときに、雪に足跡が残ってしまう。エマは策をめぐらせ、足跡が残らないように彼を背負って中庭へと運ぶことにした。だがこのことは愛し合う二人にとって命取りとなってしまった。
 明るい満月の夜、王はある囁きを聞いた。王は囁きのするほうへと進み、窓のところへ来た。そこで王は愛娘が男を背負って歩いているところを見てしまった。王は怪訝に思った。怒りがアインハルトに向かった。しかし同時に愛娘を不幸にすることはできず、躊躇し、一晩中悩んだ。翌朝王は側近に、
「他人の男と一晩過ごした娘は王家にふさわしいか?」
と聞いてみた。アインハルトはこの言葉にギクッとし、主人に自分のことをすべて告白した。王は何も聞こうとはしなかった。
「陛下、お嬢様はやさしいお方です。」
しかし、カール王は聞こえない振りをしているようだった。
「その男は夜、女性たちの部屋に忍び込んだのですか?何をしたのですか?」
 アインハルトは叫んだが、王の唯一つの、有罪を宣告する言葉を知っていた。
「死刑にせよ!」
アインハルトはすべてを失い、断頭台へと送られることになった。
 王は玉座を立ち、アインハルトは付き従った。前室のドアが開き、そこにはエマが立っていた。エマは怒りに燃える父の顔を見、何が起こったのかすべてを悟った。エマひざまづき、
「お父様、どうかお許しを!彼は私のすべてよ!かけがえのない人よ!」
アインハルトもまた、深くひざまづき、王でありかつ主君であるエマの父に許しを願った。
 王は目を閉じて考えに考えた。
「恋人たちを誰も離しはしないさ。近いうちに指輪を交換するといい。お祝いしよう。そしてどこか遠くへ出て行け!」
そう言って王はドアから出て行き、残った二人は抱合って泣いた。次の日二人は早速インゲルハイムの宮殿を旅立った。カール王もまたインゲルハイムに戻ることはなかった。

 カール王はザクセンの反乱を沈め、アーヘンで病気療養し、ローマに赴いて載冠し、ローマ皇帝となった。

 ある時カール大帝は狩猟の旅に出かけた。河に弱った鹿がいたが追いかけることができなかった。もう日は暮れて薄暗くなっていたからだ。そこは野生の動物が多く、ここで夜を明かすべきかどうか迷った。空に一番星が輝くころ、遠くにかすかな光を見つけた。注意深く光の先に馬を進め、そして小屋を見つけた。そこには人が住んでおり、金色の髭を蓄えた大柄な男性がいた。狩りで道に迷い、一晩泊めてもらえないかと頼んだ。
 男性はカール大帝を中に入れた。部屋に小さな男の子を膝に抱えた若い女性がいた。男性と女性をじっと見た。皇帝は何も食べようとはしなかった。あまりにも疲れすぎていたのだ。忘れ去った古い時を思い起こしていた。子供を抱いた女性のことを考えていた。「なんという名だったか?エマだったか?どのくらいここにいるんだ?あの頃はまだ小さな女の子だった。5歳だったな。」悲しげに愛娘の小さな頃のことを考えていた。年老いた男はつぶやいた。
「きみはなんていうんだ、私の子?」
「私はエマよ!」
皇帝の目に涙が流れた。
これは夢なのか?私のいなくなった娘、そして息子、エマとアインハルトにまた会えるなんて!泣いて抱合って、再会を喜び合った。
 カール大帝は、一度は勘当した娘たちを連れ、一緒に宮殿へと帰った。

 エマとアインハルトが暮らしていた小屋は発見され、そこに教会が建てられた。そしてエマとアインハルトは今そこに眠っている。


Kaiserpfalz Ingelhaim

 サイトには歴史のほかに発掘の様子や再現図も紹介されています。
posted by ぺんた at 21:00| Comment(2) | TrackBack(0) | ライン下り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月06日

フランケンシュタイン城廃墟(Burgruine Frankenstein)

 ラインラント・プファルツ州のフランケンシュタインという名の町にある、その名もフランケンシュタイン城。なお、フランケンシュタインという名の城は他にダルムシュタット近郊のオーデンヴァルトとオーストリアにもあります。それゆえ、城の名前の後に所在地をつけて区別します。今回紹介する城はプファルツにあるので、フランケンシュタイン城(プファルツ)になります。ドイツにあるもう一つのフランケンシュタイン城(オーデンヴァルト)は以前メルマガで紹介しましたので、そちらを見てください。フランケンシュタインといえば、怪物フランケンシュタイン。怪物フランケンシュタインにまつわる話もメルマガで一緒に紹介しています。怪物フランケンシュタインの話は、もう一つのフランケンシュタイン城(オーデンヴァルト)に伝わるお話が参考にされているのです。

 フランケンシュタイン城は破壊されたことのない中世のブルク。岩山上のわずかな空間と急斜面に、いろいろな建築家により巧みに建築されている。
 城の一番古い部分は四角形をしたベルクフリートの下の部分。粗く丸みを帯びた隆起のある石で構成されていることから、シュタウフェン朝時代(12世紀前半)であることを物語る。ベネディクト派リンブルク修道院から街道を守る依頼を受けて小さな防御施設を建てた。リンブルク修道院は1030年に皇帝コンラート3世よりプファルツを所有することになった。当時重要な街道であったメッツからシュパイヤーを結ぶ街道を保護し、城からデュルクハイムやヴォルムスへと結ぶ街道を監視した。
 世俗的な役所としてではなく、精神的な役所であったが、1200年ごろ、ライニゲン伯爵が城代に就いた。確かなことは、1301年にベルクフリートの隣に城を建設し、修道院リンブルクから封土として与えられたことだ。つまり、土地とベルクフリートはリンブルク修道院の所有するものであり、ブルクはライニゲン伯爵の所有であった。
 ライニゲン館は3つの部分からなる。急勾配の斜面に立つが、高さはすべて同じになっている。礼拝堂館、5階建てのホール館、住居館。

 1390年にブルクの半分がディーター・フォン・インゼルトハイムに売られ、封建領主のリンブルク修道院はこのことをほとんど確認していなかった。新しい城主は新しい城を建て、建物の両側に階段を設けてベルクフリートに行けるようにしてしまった。その部分は1414年から1416年の間にナッサウ・ザールブリュッケンとライニゲン・ハルデンブルガーのものになったが、インゼルトハイムは共同所有者として残った。1418年に共同所有の契約がなくなり、インゼルトハイムは城の1/3を所有することとなった。

 15世紀、近代的武器に対抗するためにツヴィンガーが建築された。そしてプファルツ伯フリードリッヒとツヴァイブリュッケン伯の争いが起こり、ライニゲンは争いに巻き込まれた。1525年の農民戦争の爪痕も残り、1560年以降ブルクにはもう住むことができなくなってしまった。しかし1703年にフランス軍が横切り、礼拝堂でのミサを妨害していたらしい。

 訪れることは可能。
posted by ぺんた at 10:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 古城たち(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月20日

エルトヴィレ城廃墟(Burgruine Eltville)

 14世紀からあるほぼ四角柱の居住塔があり、多角形の階段塔が中庭のほうにある。宮殿から河にかけて西翼が城壁と一体となっている。北と南にツヴィンガーだったと思われるものが残る。ブルクはおよそ深さ5mの堀で守られていたが、現在そこには水がなく、駐車場として使われている。東翼は1683年に新しくなり、その後何度も改修されて別の目的で使用されるようになった。

 エルトヴィレの街の起こりはローマ時代にまでさかのぼり、1060年にここは「Alta Villa」と呼ばれていたことが分かっている。
 12世紀にマインツ大司教のコンラート1世により水城が建築された。1165年、1243年に通行税をめぐるフェーデがあり、1301年に破壊されてしまった。
 14世紀に大司教と都市の間に争いが勃発した。エルトヴィレはブルクをより強固なものにした。おそらく城の古い部分がこの時のもの。
 1328年に法王ヨハネ12世がボンの司祭をマインツ司教にしようとしたのに対し、皇帝はハインリッヒ・フォン・ヴィルネブルクを推したので争いになり、ハインリッヒ・フォン・ヴィルネブルクは城を増強した。そして1339年にマインツ軍により城は焼け落ちた。
 そして1345〜47年に街を守るために城は再び建てられた。15世紀の初めにライン選帝侯、国王ルプレヒト、大司教ヨハン・フォン・ナッサウにより、城は増強され、大司教の政庁としてよく利用された。
 1584年、ザクセン選帝侯アウグストが毎日のようにシュヴァルバッハから水が運び込むために、100人以上の兵士を連れて来た。城の周囲で攻防があったかどうかは定かではない。
 30年戦争で、スウェーデン軍により破壊され、19世紀の半ばまで放置されたままの状態だった。
 1806年はナッサウ公国、1867年にプロイセンの所有となっていたが、1936年にエルトヴィレ市と協定を結び、一般見学ができるようになった。
ラベル:ヘッセン
posted by ぺんた at 21:32| Comment(0) | TrackBack(0) | ライン下り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月16日

デトモルト城(Schloss Detmold)

 ドイツ北部最大の四翼のルネッサンスシュロス。水城。

 ドイツ北部で有名な二人のルネッサンス建築家(イェルグ・ウンカイルとコルト・テニース)により建てられた。
 中世からある部分は1547年の大火により失われてしまっている。
 近世初期に円形の稜堡が設けられ、城館(シュロス)と要塞の機能を併せ持つようになった。
 現在も侯爵一家がご住まいになっており、収集された美術品の数々を公開している。

 およそ起源ごろにこの値への入植が始まる。
 800年ごろ、カール大帝の時代、現在の旧市街地区に最初の領主、アインハルトの住まいがあった。783年に近くでザクセンとフランケンの戦闘があった。この頃はテオトマリと呼ばれていた。
 1011年ドイツ国王からパダーボルン司教にこの地の権利を贈られた。
 1180年、皇帝フリードリッヒ1世バルバロッサがハインリッヒ獅子公、ザクセン・バイエルン公との権力闘争があり、その時の城主ベルンハルト2世はハインリッヒ側に付いた。近隣の公爵家の家々が破壊される中、デトモルトは破壊を奇跡的に免れた。
 
 デトモルドの水城は遅くとも1270年には建てられていた。同時に街も建設された。
 1429年、ジモンス4世が若くして亡くなると、相続争いがおこり、1447年にフェーデが勃発してしまった。その際、城と都市が焼失してしまった。
 それから100年の後、リッペ伯のものになり、シュマールカルディッシュの戦いの際にはプロテスタントのヘッセン方伯側についた。そして当然のごとくデトモルトは焼け落ち、破壊されてしまった。
 1586年から1613年の間にリッペ伯のメイン宮殿として改築された。
 30年戦争後、文化が花開き、街と城が増築されていった。
 ヨハネス・ブラームス、フランツ・リストがピアノ教師として侯爵レオポルド3世もの下に仕えていたこともある。
 1895年、リッペの後継者争いが起き、ザクセン王を議長にして和解し、エルンスト・ツア・リッペ・ビースターフェルトの摂政政治を行うことになった。このリッペ・ビースターフェルト家が現在のリッペ家である。

 大戦後、多くの貴族がそうであったように、デトモルトもまた政治の権利はは貴族からドイツへと変遷したが、私有部分と国有部分に分けられ、管理されている。

Schloss Detmold


 もうちょっとこの城について纏まったら、ちょ〜久しぶりにメルマガでも書いてみっかな。
posted by ぺんた at 21:21| Comment(1) | TrackBack(0) | 古城たち(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月11日

東方殖民と食糧生産

 1000年ごろ、ドイツとスカンジナビアには400万人しか住んでいなかった。それが14世紀中ごろには1160万人膨れ上がった。出生率は平均5人。その背景にはそれを支える食糧生産の大幅な増加がある。地層から採取された穀物花粉の分析からも、それは明らかになっている。

 12世紀、新しい入植地を探し求め、原生林を切り開き、荒野や湿地を開拓していき、農地が大幅に増加した。この頃の国土面積に対する農地面積は現在よりも広く、森林面積は現在よりも小さかった。自然のままに残る土地はほとんどなくなり、人工的な土地ばかりとなり、そういった意味では現在とほとんど警官は変わらない。
 また二圃式農業から三圃式農業へと変遷し、農機具も発達して木製のものだったものが先端部分を鉄製にしたものが広がったことでより深く効率よく耕せるようになりり、単位面積当たりの食料も増加した。
 そして更なる入植地を探し求め、東方へと広がっていった。東方入植を促すため、領主は税制面で優遇するなどして農民を集めた。東方殖民はポーランド、ロシア、チェコ方面へと広がっていった。しかし東方殖民地では当初税制面などで恵まれていたが、次第に土地と切り離されて不自由な隷農民となってしまった。この時代の東方殖民地が後のドイツ民主共和国(旧東ドイツ)となるわけだが、西と東の境界は全くの偶然ではなく、国民性の違いもこのような歴史的背景と関係している。
 
 入植に伴って新たな村や町ができた。現在のドイツの都市のほとんどは、12、3世紀頃に起源を持つ。そして同時に多くのブルクが建てられた。貴族たちだけでなく不自由民のミニステリアーレたちもブルクを建てたが、ミニステリアーレもまた14、5世紀には貴族化した。

 12世紀の終わりごろまでに、開墾できる土地は開墾しつくされた。農業技術の発達により食糧も増産されたものの、肥料を施す知識はなかったため、14世紀ごろには地力が衰え始め、食糧生産は減少していった。
ラベル:中世後期
posted by ぺんた at 22:46| Comment(0) | TrackBack(0) | ドイツの歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月02日

ローテンブルク城廃墟(Burgruine Rothenburg)

 ローテンブルクシリーズをやりたくなってしまったので、またローテンブルク。赤い色(Rot)をしたブルクなのでローテンブルクと名づけられたのだ。他のローテンブルクも赤いブルクだからローテンブルクという名前なのだ。

 観光地として日本人には有名なロマンティック街道のローテンブルク・オプ・デア・タウバーとドイツ木組み街道のローテンブルク・アン・デア・フルダ等の他のローテンブルクこちらからどうぞ。

 チューリンゲンのキフホイザー山地にあるブルク廃墟。赤い砂岩を使用しているので赤い城となっている。 モダンに増築されたフォアブルクの奥、山の突出部にケルンブルクがあり、城壁を囲むように堀がある。ケルンブルクは卵形をしており、攻撃側部分には巨大な円形のベルクフリート。直径は12m、壁の厚さは2.7m。

 1116年、もしくは1103年から1150年にかけて、クリスティアン1世・フォン・ローテンブルクによって建てられた。
 ローテンブルク家が1200年ごろに途絶えた後は、バイヒリンゲン伯フリードリッヒが相続した。
 シュタウフェン家とヴェルフェン家が争いをしているとき、この城は重要な役割を果たし、1212年に皇帝オットー4世軍はこの城を占拠した。
 13世紀以降はチューリンゲン方伯圏となり、1300年ごろ、この城には有名なミンネゼンガーのクリスティアン・フォン・ルピンが訪れている。
 14世紀からはめまぐるしく城主が変わり、1576年に最後の伯爵家が途絶えた。それ以後は放置され、廃墟となっていった。
 19世紀にピクニック休憩所が設けられ、シニア雇用により維持管理が行われており、私有地らしい。

Burgruine Rothenburg

写真を見ると、かつては立派なブルクであったことが想像できます。
posted by ぺんた at 14:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 古城たち(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月30日

キフホイザー(Burgruine Kyffhäuser)

 皇帝フリードリッヒ1世赤髭王(バルバロッサ)が眠っているという伝説のある帝国ブルクの廃墟。フリードリッヒ1世は十字軍の遠征途中、イタリアの川で溺死したのだが遺体は見つからず、キフホイザーに眠っているという伝説が生まれた(但し伝説は孫のフリードリッヒ2世と混同されているというか、融合しているのだが)。ここが帝国ブルクであったことの意味を、バルバロッサ伝説が物語っている。
 ロマン主義の時代であった1890から1896年にかけて建築家ブルーノ・シュミッツによりヴィルヘルム1世とフリードリッヒ1世の彫像が建てられた。

 城はオーバーブルク、ミッテルブルク、ウンターブルクの3つの部分から成っており、全体で全長608m、幅60mである。
 オーバーブルクがケルンブルクであり、居住階は暖炉のある3階、守衛のための張り出しの入り口は10.5mの高さのところにある。環状城壁の高さは10m。井戸の深さは176mもありドイツ一。
 ミッテルブルクは四角形で円形の塔がある。
 ウンターブルクからミッテルブルクに抜ける通路がある。円形の塔の直径は11mある。ブルクの北城壁に居住塔と礼拝堂の複合建築物がある。1433年に後期ゴシック様式に姿を変えたが、保存状態は良くない。
 中世の頃、赤い禿山の上に建てられた木製の施設だった。石材も赤いものが使用された。赤は皇帝の権力を表している。ここは軍事的な目的だけではなく、皇帝の権力を示す目的も持っていた城なのだ。

 ブルクは10世紀にティレダ宮を守るために建てられた。この時国王ハインリッヒ5世とザクセン公ロタールが争っており、1118年に攻撃されたことがある。
 シュタウフェン朝時代、ここは帝国領であり、1150年以前には巨大なブルクが建築されていた。
 皇帝ハインリッヒ6世とハインリッヒ獅子公がブルク下のティレンダで和解した。国王の死後ブルクの重要性はなくなり、1222年に帝国ミニステリアーレのミルデンシュタインの領主が城主として就いた。
 1290年、ハプスブルク国王ルドルフがバイヒリンゲン伯をキフハイゼンの城伯に任命した。
 その後たびたび城主が変わり、1435年に崩落した。

Kyffhäuser Denkmal
posted by ぺんた at 21:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 古城たち(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月29日

クロイツブルク城(Burg Creuzburg)

 アイゼナハの北、6kmぐらいのところにある城。

 この場所に立つ城はカロリング朝の頃にはすでにあったとされる。当時は国王の所有でミリンゲンと呼ばれ、後にフルダ司教の所有となる。
 1069年に皇帝ハインリッヒ4世とマインツ司教の会合がここで行われた。
 1170年にルードヴィッヒ2世鉄の方伯が現在のブルクをたてた。そしてフルダ修道院長の要求に対し、皇帝フリードリッヒ1世赤髭王によりその所有が認証された。クロイツブルクの他、ヴァルトブルク、ルンネブルク、ノイエンブルクを並行して建築することに成功した。方伯のサブ居城として使用され、ヘルマン2世方伯はここで生まれ、亡くなった。
 1259、60年にブラウンシュヴァイク公爵とバラバント公爵夫人ゾフィーによるチューリンゲン継承戦争が起こった。が、どうなったのかは定かではない。
 1294年に方伯の子息とナッサウ国王のアドルフが争い、国王軍がクロイツブルクを包囲したこともあった。
 所有者はザクセン・クロイツブルク・アイゼナッハ公爵、ザクセン・アイゼナハ公爵、ザクセン・ヴァイマール、ザクセン・アイゼナッハ公爵、ザクセン・ヴァイマール・アイゼナハ公爵へと移り変わった。現在はクロイツブルク市の所有となっている。

 ここを訪れた著名人に、ルター、ナポレオン、ゲーテがいます。

Burg Creuzburg

現在、ホテル、レストラン、結婚式場として利用されています。
posted by ぺんた at 07:51| Comment(0) | TrackBack(0) | ゲーテ街道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。