2007年03月30日

キフホイザー(Burgruine Kyffhäuser)

 皇帝フリードリッヒ1世赤髭王(バルバロッサ)が眠っているという伝説のある帝国ブルクの廃墟。フリードリッヒ1世は十字軍の遠征途中、イタリアの川で溺死したのだが遺体は見つからず、キフホイザーに眠っているという伝説が生まれた(但し伝説は孫のフリードリッヒ2世と混同されているというか、融合しているのだが)。ここが帝国ブルクであったことの意味を、バルバロッサ伝説が物語っている。
 ロマン主義の時代であった1890から1896年にかけて建築家ブルーノ・シュミッツによりヴィルヘルム1世とフリードリッヒ1世の彫像が建てられた。

 城はオーバーブルク、ミッテルブルク、ウンターブルクの3つの部分から成っており、全体で全長608m、幅60mである。
 オーバーブルクがケルンブルクであり、居住階は暖炉のある3階、守衛のための張り出しの入り口は10.5mの高さのところにある。環状城壁の高さは10m。井戸の深さは176mもありドイツ一。
 ミッテルブルクは四角形で円形の塔がある。
 ウンターブルクからミッテルブルクに抜ける通路がある。円形の塔の直径は11mある。ブルクの北城壁に居住塔と礼拝堂の複合建築物がある。1433年に後期ゴシック様式に姿を変えたが、保存状態は良くない。
 中世の頃、赤い禿山の上に建てられた木製の施設だった。石材も赤いものが使用された。赤は皇帝の権力を表している。ここは軍事的な目的だけではなく、皇帝の権力を示す目的も持っていた城なのだ。

 ブルクは10世紀にティレダ宮を守るために建てられた。この時国王ハインリッヒ5世とザクセン公ロタールが争っており、1118年に攻撃されたことがある。
 シュタウフェン朝時代、ここは帝国領であり、1150年以前には巨大なブルクが建築されていた。
 皇帝ハインリッヒ6世とハインリッヒ獅子公がブルク下のティレンダで和解した。国王の死後ブルクの重要性はなくなり、1222年に帝国ミニステリアーレのミルデンシュタインの領主が城主として就いた。
 1290年、ハプスブルク国王ルドルフがバイヒリンゲン伯をキフハイゼンの城伯に任命した。
 その後たびたび城主が変わり、1435年に崩落した。

Kyffhäuser Denkmal
posted by ぺんた at 21:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 古城たち(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月29日

クロイツブルク城(Burg Creuzburg)

 アイゼナハの北、6kmぐらいのところにある城。

 この場所に立つ城はカロリング朝の頃にはすでにあったとされる。当時は国王の所有でミリンゲンと呼ばれ、後にフルダ司教の所有となる。
 1069年に皇帝ハインリッヒ4世とマインツ司教の会合がここで行われた。
 1170年にルードヴィッヒ2世鉄の方伯が現在のブルクをたてた。そしてフルダ修道院長の要求に対し、皇帝フリードリッヒ1世赤髭王によりその所有が認証された。クロイツブルクの他、ヴァルトブルク、ルンネブルク、ノイエンブルクを並行して建築することに成功した。方伯のサブ居城として使用され、ヘルマン2世方伯はここで生まれ、亡くなった。
 1259、60年にブラウンシュヴァイク公爵とバラバント公爵夫人ゾフィーによるチューリンゲン継承戦争が起こった。が、どうなったのかは定かではない。
 1294年に方伯の子息とナッサウ国王のアドルフが争い、国王軍がクロイツブルクを包囲したこともあった。
 所有者はザクセン・クロイツブルク・アイゼナッハ公爵、ザクセン・アイゼナハ公爵、ザクセン・ヴァイマール、ザクセン・アイゼナッハ公爵、ザクセン・ヴァイマール・アイゼナハ公爵へと移り変わった。現在はクロイツブルク市の所有となっている。

 ここを訪れた著名人に、ルター、ナポレオン、ゲーテがいます。

Burg Creuzburg

現在、ホテル、レストラン、結婚式場として利用されています。
posted by ぺんた at 07:51| Comment(0) | TrackBack(0) | ゲーテ街道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月28日

騎士の生活

 騎士はブルクで生活した。ブルクの内部は暗く、冬は寒かったので、決して快適なわけではなく、便利なわけではなかった。
 騎士になるものはかなり若い頃(修行に出る7歳ごろから)規律ある生活をした。
 財政は基本的に税に頼っていた。しかし底辺にいる下級騎士は、自ら畑を耕さなければならないような、農民となんら変わらないものもいた。

 夏は自然の中ですごし、狩猟に出かけ、狩った獲物が食卓をにぎわした。冬の生活は単調であった。
 騎士生活の再骨頂は祭りであり、トーナメントで勇気と力を示すことである。そして吟遊詩人(ミンネゼンガー)たちの訪れを心から楽しんだ。
posted by ぺんた at 20:15| Comment(0) | TrackBack(0) | ドイツ中世の騎士 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月27日

クヴエアフルト城(Burg Querfurt)

 ライプツィッヒの西15kmぐらいのところにあるブルク。ザクセン・アンハルト州で最も古くからあり、巨大なブルク。ヴァルトブルクの7倍の大きさがあり、城壁の外を堀が囲む。
 中世初期の避難ブルクに由来する。石造りの城は10、11世紀ごろ。環状壁と多くの住居があり、塔が1つ、小さな礼拝堂が1つあった。

 巨大な主塔は「太ったハインリッヒ」と言われ、壁の厚さが4m以上もあり、窓や暖炉、階段などがある。

 1460年、防御施設として陵堡や塔を築く。

Burg Querfurt
posted by ぺんた at 22:55| Comment(0) | TrackBack(0) | ロマネスク街道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月24日

中世の城、ブルク

 ブルクとは軍事機能を持つ城のこと、城砦。周辺住民の安全を確保する場所でもあり、領主の館でもあったところ。

 先史時代より外的に襲われたときに逃げ込む“Fliehburgen(避難ブルク”が小高い丘の上に存在していた。時代が進むと、そこは上流階級が屋敷を構えるようになる。

 9,10世紀、ブルクは水掘りのある小さな塔を持つようになる。人工的な丘(独:Motten、英:motte)を作り、その上に塔を建てた。建物も柵も基本的に木製。建物は下の階は石造りでも、上階は木製。このようなブルク様式は、ノルマン人が得意としている。
 大きな水城はこの頃の城に由来していることが多い。

 11,12世紀ごろ、本格的に山城が登場するようになる。山の頂上や、出っ張りの部分に城を築き、突出した部分に城を築いた場合尾根側には堀を設けた。
 ローマ帝国の国境を監視する見張り塔を“Burgi”と読んでいたことから、ドイツ語の“Burg”という言葉が派生した。

 住居塔のブルク。底辺が10m四方または15×20m、壁の厚さ2〜3mで何階もある塔で居住できる空間がある塔が出現した。住居塔は“Kemetate”と呼ばれる。

 ブルクは領主が街道をコントロールしたり、境界を守備したり、軍事的中心地として建てられた。戦争時、周辺住民はブルクに逃げ込むことになっている。いくつかの文献では、実際に周辺住民が避難してきたという記述もある。しかし、すべてのブルクでそれが許されていたとは限らないと思う。
 基本的には攻撃よりも敵の攻撃から守ることを主体として建てられている。
 しかしこのような中世のブルクは剣と楯と弓の時代はよかったが、火器が発達してくると時代に合わなくなっていった。

 地域によって差はあるが、ドイツ中央部(ヘッセン)では1150年から1520年までゴシック様式、1550年以降はルネッサンス様式が見られるようになった。
 1550年ごろ、時代は住居と軍事的要塞を兼ね備えたブルクから、居住のためのシュロス(Schloss:城館)と軍事的要塞(Festung:要塞)へと機能分化し、ブルクの時代は終焉することとなる。

 なお、このブルクの時代こそが騎士の時代である。騎士の住居こそがブルクで、ブルクの主人こそ騎士である。そしてブルクの時代の終焉とともに騎士の時代も終わりを迎えている。
ラベル:ブルク
posted by ぺんた at 08:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 城砦の知識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月23日

ザバブルク(Dornröschenschloss Sababurg)

 ラインハルツヴァルト(Reinhardswald:写真を見ると、森と言うか、小高い丘と言うか山と言うか)に立つ城。城壁に3階建ての住居があり、東側八方に塔が立つ。大きな円形の塔は17世紀に建てられたもの。北側城壁には地下室と井戸がある。かつてはツァプフェンブルクとかツァッペンブルクとも呼ばれていた。

 1959、60年以降はヘッセン州が所有し、ホテルとして使用されている。日本の観光ガイドブックにもよく紹介されているので、なじみのある城だと思う。

 12世紀ごろ、マインツ司教は北に権力を拡大し、1300年ごろにブルクを建て、霊場巡りを見守っていた。ヘッセン方伯の影響下にあり、何度もその争いに巻き込まれた。
 1357年に激しい争いが起こり、ブルクの半分は司教のものからヘッセン伯のものへ、残りの半分はシェーネベルク領主のものとなった。
 1428年にシェーネベルク家が途絶え、すべてヘッセンのものとなる。しかし中世のブルクはもう時代に合わなくなり、1455年ごろには廃墟となっていた。150年以上もの間に木が生い茂り、茨の森の城といわれるようになった。

 1508年にブルクの部分を狩猟用のシュロスにした。
 30年戦争で皇帝軍に荒らされたが、1651年には改築。7年戦争ではフランス軍が占拠し、破壊した。

 1826年、フリードリッヒ2世方伯が城を建て直し、城にとっては平穏な日々が続くが、次第に老朽化し、一部が崩壊、見向きもされなくなる。
 1959年に保護運動が起こり、1961年にホテルとして営業を始めるようになった。

Sababurg
posted by ぺんた at 08:01| Comment(0) | TrackBack(0) | メルヘン街道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月21日

ローテンブルク城(Schloss Rothenbug an der Fulda)

 ロマンティック街道で有名なオプ・デア・タウバーのローテンブルクではない、アン・デア・フルダのローテンブルクだ。ロマンティック街道兼古城街道のローテンブルク・オプ・デア・タウバーについてはこちらに書いてます。。フルダ川沿いだからアン・デア・フルダ。ドイツ木組み建築街道のローテンブルクだ。城館だ。フルダ川沿いのローテンブルクもドイツ木組み建築街道もあまり有名じゃないけど。カッセル(Kassel)からだいたい南南東に10kmぐらい行ったところにある城。
 閉じた四翼の施設で3階建て、四方に塔がある。

 起源は9世紀。ギゾー伯が城代を勤めていたが、後にチューリンゲン&ヘッセン方伯に相続されることとなる。
 最初にここを治めるためのブルクが建設され、すぐに街が出来上がったとされ、それが1248年。しかし現在城塞都市の姿は完全に消えている。
 1470年にヘッセン方伯ルードヴィッヒ2世がフルダを直轄し、シュロスを建てたが100年後に焼失。何度も建設しては破壊されることを繰り返した。
 現在のシュロスは1540年にフィリップ大方伯が建てたもの。
 フィリップ大方伯の死後、領土は4人の息子たちに分割され、ここはヴィルヘルム4世の治めることになった。1570年以降、城はルネッサンス様式となった。
 1607年にモーリッツじ方伯がシュロスを完成させ、新館に滞在した。
 それ以降城の姿はほとんど現在と変わらないが、強いて言えば1790年に大規模な改築があったくらい。
 30年戦争後、ヘッセンは分割され、1627年以降は傍系家系に移る。
 18世紀も終わりになると老朽化が目立ち始め、1789年にフランス人建築家が改修工事を行った。
 1834年に傍系であるヘッセン・ローテンブルクが途絶え、ヘッセン・カッセルに戻った。
 1866年にプロイセンのヘッセン・ナッサウ州となり、城はプロイセンの管理下にはいるか、個人所有のままでいるか長いこと論争していた。
 1934年にはほぼ空家となっていた城を市が取得し、1945年は亡命者の仮宿舎そして使用された。

 現在は博物館として使用されているほか、学校(Landes-Finanzschule)としても使用されている。
posted by ぺんた at 16:36| Comment(0) | TrackBack(0) | ドイツ木組み建築街道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月19日

グッテンベルク城(Burg Guttenberg)

 ネッカー川沿いにある山城。シュタイフェン朝時代、王朝のあるバート・ヴィンプフェンを守るために建てられた城。シュタウフェン朝の城代がこの城に居住していたが、1449年にハンス・フォン・ゲミンゲンが購入して以来、ゲミンゲン家がこの城に住む。
 それ以外にどのような歴史があるのかは、あまり知られていないようだ。

 現在もゲミンゲンの一族が住んでいる。プライベート空間以外は博物館として公開もされている。訪れると城の一部に生活臭の漂う場所があるので、ちょっとびっくりする。城館タイプの城で現在もすんでいるのはよくあることだが、城砦タイプでは珍しいな。内部はたぶん今風に改装されているとは思うが。

 山城であるため眺めがよく、レストランで眺望を楽しみながら食事するのもよろし。
 堀の部分が鷲鷹園になっており、城内に様々なワシタカ類が飼われている。時間が合えば鷹狩りも楽しむことができる。私は残念ながら訪れたときはちょうど終わった後だった。かっこいい鷹狩りを見物したかったなぁ。

 ここも中世祭りがあるようですね。馬小屋がホテルになっているようですが、スタッフが中世風の服装をしてたり、料理も騎士気分を味わえるようになっているみたいです。
 礼拝堂で結婚式も挙げられるらしい。

Burg Guttenberg

 ここもお城で町おこし?しているように思えてきた。実際のところどうなのか知らないけど。ど田舎のブルクで中世なイベントにものすごく力を入れているようなところが結構あるんです。
 一種のテーマパークなのかもしれませんね。

 ここは騎士風料理に力が入ってるな、うん。

グッテンベルク
posted by ぺんた at 20:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 古城街道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月15日

ローテンブルク城跡(Burgruine Rothenburg ob der Tauber)

 ローテンブルクの現ブルクガルテン。ここにはかつて城が建っていた。それもカイザーブルク。
 このブルクガルテンから眺める第3城壁は絶好の写真ポイントだと思う。お勧めです。街がどういうところに建っているのかも、よく分かります。湾曲するタウバー川に三方を囲まれ、城を建てたくなる場所だということがよく分かります。タウバー川の谷と、その上にそびえる街並みが美しいです。写真はブルクガルテンから撮った写真です。

P1010014.JPG

 ブルクガルテンに城の名残である塔が建っていますが、この塔、よく見ると、表面に出ている部分が丸みを帯びた方形の石(Buckelquader と言う)で作られております。この形状は主体フェン朝時代のドイツのみに見られるものです。この形を見たら、シュタイフェン朝時代(1150-1250)のものと思って間違いありません。

 城下町はこの城の元に商人が集まってできたものです。

970年頃、ローテンブルク家のグラーフェンブルク(Grafenburg)がここに建てられる。
1116年、皇帝ハインリッヒ5世(Heinrich V.)は甥のコンラート・フォン・シュヴァーベン(Konrad von Schwaben)に封土として与える。このコンラートは後にドイツ国王コンラート3世になる。
1152年、王位は甥のフリードリッヒ1世赤髭王(Friedrich I. Barbarossa)が引き継ぐ。 フリードリッヒ1世はローテンブルクで育ち、皇帝に就いたときはまだ8歳で、ローテンブルクど童子とあだ名されていた。赤髭王(バルバロッサ)といったら、ドイツの中世を語るに度々登場する超人気のある皇帝。
1157年、皇帝ハインリッヒ5世の息子,フリードリッヒは騎士叙任式を受け、ザクセン公ハインリッヒ獅子(Heinrich der Löwe)の娘と結婚。
1167年、フリードリッヒはイタリア遠征中に死去。赤髭王が遺産を相続。
13世紀、シュタウフェン家の断絶と共に、城は放棄された。コームブルク修道院に寄進され、地震で壊れるまでは修道院のものになる。
1274年、都市ローテンブルクは帝国自由都市となる。
1356年、ドイツにしては珍しく地震があり、城と都市は甚大な被害を受けた。すでに無人となっていた城の石材等は、都市の再建に利用された。

 こうして城は姿を消した。城は消えたが、その城下町は残り、栄えます。シュタイフェン朝時代はシュタイフェン朝の役人が納めていましたが、やがて城主はいなくなり、帝国都市となり、市民が管理していくことになりました。

 なお、ローテンブルクという名はもう1つ、フルダ川沿いのがあり、それについてはこちらに書いてます。
posted by ぺんた at 22:25| Comment(0) | TrackBack(0) | ロマンティック街道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月14日

エーレンフェルス城跡(Burgruine Ehrenfels)

 リューデスハイムの北、山の斜面に立つ城の廃墟。4.6mの厚さ、高さ20mの盾城壁があり、直径7m、高さ33mの塔を持つ。
 山の斜面の城の廃墟と、河を行く船、山の麓を走る車が組み合わせが美しい。その周囲はブドウ畑が広がっています。

エーレンフェルス

 983年から1200年までは正式なことは分かっていないが、1150年ごろ、騎士ヴィダーショルが塔のあるブルクに居住していた。
 1200年から1208年のフィリップ・フォン・シュヴァーベンとオットー、ハインリッヒ獅子公、マインツ司教間の争いに関係している。1211年にミニステリアーレのフィリップ・ヴォン・ボーランデンにより改築された。フィリップの死後、ベアトリクス夫人がディートリッヒ・フォン・ハインスベルクと結婚することにより、相続問題が生じるが、判決により国王側から司教のものとなる。
 13世紀中ごろは司教の税関城として使用される。1301、1302年に税争いが選帝侯と国王の間で起こり、5年はゴットフリート・フォン・ブラウンエックが管理することになる。
 1353年、売りに出され、ゲアラッハ・フォン・ナッサウが購入する。以後、平穏な時代が続く。
 30年戦争が勃発。フランス軍の攻撃により、城は破壊される。
 19世紀の終わり、一部が新ゴシック様式になる。
 1866年、プロイセン王国のものになり、現在はヘッセン州が保護活動をしている。

Burg Ehrenfels
ラベル:ヘッセン
posted by ぺんた at 20:40| Comment(0) | TrackBack(0) | ライン下り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月12日

コルムベルク城(Burg Colmberg)

 ロマンティック街道で有名な町ローテンブルク・オプ・デア・タウバーから東へ18km行ったところにある山城。ローテンブルクから18kmと近いので、タクシーを利用して行けるのではないかと思います。城からはすばらしい田園風景を見ることができますよ。まさにベートーベンの曲『田園』が似合う風景。

 1318年から1880年までプロイセン王家ことホーエンツォレルン家の居城だったところ。皇帝や王様を輩出した名門貴族のブルクですぞ。そんじょそこらの騎士の城とは違うんですぞ。
 古城ホテルの多くは宿泊する部屋が馬小屋であったり兵舎であったりするのですが、ここはスィートルームに限って言えば本館にありました。城の気分を味わうには、やはり本館でなくちゃね。

 在独時に新婚の友人夫妻が来たときに行きました。ハイシーズンで、予定日の2週間前にネット予約したにもかかわらず、難なく取れました。
 友人夫妻にはバロックスィートを、私たちは侯爵スィートの部屋に泊まりました。どちらもジャグジーバス付き。
 ただこのジャグジーバス、あまり使っていないのかどうなのか、スイッチを入れると湯垢がたんまり出てきたよ。

 昔のたたずまいをそのままに、騎士の間や礼拝堂があります。レストランのお客の半分は地元の人かしら?レストランの雰囲気もいいですよ。宿泊する部屋へは礼拝堂を通っていきましたが、敵の攻撃から守るために迷路状態。何度か迷いました。

 ↓こんな雰囲気の場所が城を探検しているとあったりして、好きな人は好きなんじゃないかしら。

古城ホテルの一角

 城になぜか葵の御紋の箱。友人夫妻の泊まった部屋には相撲の行事さんが持っている扇。なんかよく分からないけど、日本とつながりがあったみたい。皇室と?ただ詳しい資料が手に入らなくて、よく分からないんですけど。

Burg Colmberg
posted by ぺんた at 19:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 古城街道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。