2007年04月11日

東方殖民と食糧生産

 1000年ごろ、ドイツとスカンジナビアには400万人しか住んでいなかった。それが14世紀中ごろには1160万人膨れ上がった。出生率は平均5人。その背景にはそれを支える食糧生産の大幅な増加がある。地層から採取された穀物花粉の分析からも、それは明らかになっている。

 12世紀、新しい入植地を探し求め、原生林を切り開き、荒野や湿地を開拓していき、農地が大幅に増加した。この頃の国土面積に対する農地面積は現在よりも広く、森林面積は現在よりも小さかった。自然のままに残る土地はほとんどなくなり、人工的な土地ばかりとなり、そういった意味では現在とほとんど警官は変わらない。
 また二圃式農業から三圃式農業へと変遷し、農機具も発達して木製のものだったものが先端部分を鉄製にしたものが広がったことでより深く効率よく耕せるようになりり、単位面積当たりの食料も増加した。
 そして更なる入植地を探し求め、東方へと広がっていった。東方入植を促すため、領主は税制面で優遇するなどして農民を集めた。東方殖民はポーランド、ロシア、チェコ方面へと広がっていった。しかし東方殖民地では当初税制面などで恵まれていたが、次第に土地と切り離されて不自由な隷農民となってしまった。この時代の東方殖民地が後のドイツ民主共和国(旧東ドイツ)となるわけだが、西と東の境界は全くの偶然ではなく、国民性の違いもこのような歴史的背景と関係している。
 
 入植に伴って新たな村や町ができた。現在のドイツの都市のほとんどは、12、3世紀頃に起源を持つ。そして同時に多くのブルクが建てられた。貴族たちだけでなく不自由民のミニステリアーレたちもブルクを建てたが、ミニステリアーレもまた14、5世紀には貴族化した。

 12世紀の終わりごろまでに、開墾できる土地は開墾しつくされた。農業技術の発達により食糧も増産されたものの、肥料を施す知識はなかったため、14世紀ごろには地力が衰え始め、食糧生産は減少していった。
タグ:中世後期
posted by ぺんた at 22:46| Comment(0) | TrackBack(0) | ドイツの歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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