フランケンシュタイン城は破壊されたことのない中世のブルク。岩山上のわずかな空間と急斜面に、いろいろな建築家により巧みに建築されている。
城の一番古い部分は四角形をしたベルクフリートの下の部分。粗く丸みを帯びた隆起のある石で構成されていることから、シュタウフェン朝時代(12世紀前半)であることを物語る。ベネディクト派リンブルク修道院から街道を守る依頼を受けて小さな防御施設を建てた。リンブルク修道院は1030年に皇帝コンラート3世よりプファルツを所有することになった。当時重要な街道であったメッツからシュパイヤーを結ぶ街道を保護し、城からデュルクハイムやヴォルムスへと結ぶ街道を監視した。
世俗的な役所としてではなく、精神的な役所であったが、1200年ごろ、ライニゲン伯爵が城代に就いた。確かなことは、1301年にベルクフリートの隣に城を建設し、修道院リンブルクから封土として与えられたことだ。つまり、土地とベルクフリートはリンブルク修道院の所有するものであり、ブルクはライニゲン伯爵の所有であった。
ライニゲン館は3つの部分からなる。急勾配の斜面に立つが、高さはすべて同じになっている。礼拝堂館、5階建てのホール館、住居館。
1390年にブルクの半分がディーター・フォン・インゼルトハイムに売られ、封建領主のリンブルク修道院はこのことをほとんど確認していなかった。新しい城主は新しい城を建て、建物の両側に階段を設けてベルクフリートに行けるようにしてしまった。その部分は1414年から1416年の間にナッサウ・ザールブリュッケンとライニゲン・ハルデンブルガーのものになったが、インゼルトハイムは共同所有者として残った。1418年に共同所有の契約がなくなり、インゼルトハイムは城の1/3を所有することとなった。
15世紀、近代的武器に対抗するためにツヴィンガーが建築された。そしてプファルツ伯フリードリッヒとツヴァイブリュッケン伯の争いが起こり、ライニゲンは争いに巻き込まれた。1525年の農民戦争の爪痕も残り、1560年以降ブルクにはもう住むことができなくなってしまった。しかし1703年にフランス軍が横切り、礼拝堂でのミサを妨害していたらしい。
訪れることは可能。