2007年05月06日

フランケンシュタイン城廃墟(Burgruine Frankenstein)

 ラインラント・プファルツ州のフランケンシュタインという名の町にある、その名もフランケンシュタイン城。なお、フランケンシュタインという名の城は他にダルムシュタット近郊のオーデンヴァルトとオーストリアにもあります。それゆえ、城の名前の後に所在地をつけて区別します。今回紹介する城はプファルツにあるので、フランケンシュタイン城(プファルツ)になります。ドイツにあるもう一つのフランケンシュタイン城(オーデンヴァルト)は以前メルマガで紹介しましたので、そちらを見てください。フランケンシュタインといえば、怪物フランケンシュタイン。怪物フランケンシュタインにまつわる話もメルマガで一緒に紹介しています。怪物フランケンシュタインの話は、もう一つのフランケンシュタイン城(オーデンヴァルト)に伝わるお話が参考にされているのです。

 フランケンシュタイン城は破壊されたことのない中世のブルク。岩山上のわずかな空間と急斜面に、いろいろな建築家により巧みに建築されている。
 城の一番古い部分は四角形をしたベルクフリートの下の部分。粗く丸みを帯びた隆起のある石で構成されていることから、シュタウフェン朝時代(12世紀前半)であることを物語る。ベネディクト派リンブルク修道院から街道を守る依頼を受けて小さな防御施設を建てた。リンブルク修道院は1030年に皇帝コンラート3世よりプファルツを所有することになった。当時重要な街道であったメッツからシュパイヤーを結ぶ街道を保護し、城からデュルクハイムやヴォルムスへと結ぶ街道を監視した。
 世俗的な役所としてではなく、精神的な役所であったが、1200年ごろ、ライニゲン伯爵が城代に就いた。確かなことは、1301年にベルクフリートの隣に城を建設し、修道院リンブルクから封土として与えられたことだ。つまり、土地とベルクフリートはリンブルク修道院の所有するものであり、ブルクはライニゲン伯爵の所有であった。
 ライニゲン館は3つの部分からなる。急勾配の斜面に立つが、高さはすべて同じになっている。礼拝堂館、5階建てのホール館、住居館。

 1390年にブルクの半分がディーター・フォン・インゼルトハイムに売られ、封建領主のリンブルク修道院はこのことをほとんど確認していなかった。新しい城主は新しい城を建て、建物の両側に階段を設けてベルクフリートに行けるようにしてしまった。その部分は1414年から1416年の間にナッサウ・ザールブリュッケンとライニゲン・ハルデンブルガーのものになったが、インゼルトハイムは共同所有者として残った。1418年に共同所有の契約がなくなり、インゼルトハイムは城の1/3を所有することとなった。

 15世紀、近代的武器に対抗するためにツヴィンガーが建築された。そしてプファルツ伯フリードリッヒとツヴァイブリュッケン伯の争いが起こり、ライニゲンは争いに巻き込まれた。1525年の農民戦争の爪痕も残り、1560年以降ブルクにはもう住むことができなくなってしまった。しかし1703年にフランス軍が横切り、礼拝堂でのミサを妨害していたらしい。

 訪れることは可能。
posted by ぺんた at 10:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 古城たち(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月16日

デトモルト城(Schloss Detmold)

 ドイツ北部最大の四翼のルネッサンスシュロス。水城。

 ドイツ北部で有名な二人のルネッサンス建築家(イェルグ・ウンカイルとコルト・テニース)により建てられた。
 中世からある部分は1547年の大火により失われてしまっている。
 近世初期に円形の稜堡が設けられ、城館(シュロス)と要塞の機能を併せ持つようになった。
 現在も侯爵一家がご住まいになっており、収集された美術品の数々を公開している。

 およそ起源ごろにこの値への入植が始まる。
 800年ごろ、カール大帝の時代、現在の旧市街地区に最初の領主、アインハルトの住まいがあった。783年に近くでザクセンとフランケンの戦闘があった。この頃はテオトマリと呼ばれていた。
 1011年ドイツ国王からパダーボルン司教にこの地の権利を贈られた。
 1180年、皇帝フリードリッヒ1世バルバロッサがハインリッヒ獅子公、ザクセン・バイエルン公との権力闘争があり、その時の城主ベルンハルト2世はハインリッヒ側に付いた。近隣の公爵家の家々が破壊される中、デトモルトは破壊を奇跡的に免れた。
 
 デトモルドの水城は遅くとも1270年には建てられていた。同時に街も建設された。
 1429年、ジモンス4世が若くして亡くなると、相続争いがおこり、1447年にフェーデが勃発してしまった。その際、城と都市が焼失してしまった。
 それから100年の後、リッペ伯のものになり、シュマールカルディッシュの戦いの際にはプロテスタントのヘッセン方伯側についた。そして当然のごとくデトモルトは焼け落ち、破壊されてしまった。
 1586年から1613年の間にリッペ伯のメイン宮殿として改築された。
 30年戦争後、文化が花開き、街と城が増築されていった。
 ヨハネス・ブラームス、フランツ・リストがピアノ教師として侯爵レオポルド3世もの下に仕えていたこともある。
 1895年、リッペの後継者争いが起き、ザクセン王を議長にして和解し、エルンスト・ツア・リッペ・ビースターフェルトの摂政政治を行うことになった。このリッペ・ビースターフェルト家が現在のリッペ家である。

 大戦後、多くの貴族がそうであったように、デトモルトもまた政治の権利はは貴族からドイツへと変遷したが、私有部分と国有部分に分けられ、管理されている。

Schloss Detmold


 もうちょっとこの城について纏まったら、ちょ〜久しぶりにメルマガでも書いてみっかな。
posted by ぺんた at 21:21| Comment(1) | TrackBack(0) | 古城たち(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月02日

ローテンブルク城廃墟(Burgruine Rothenburg)

 ローテンブルクシリーズをやりたくなってしまったので、またローテンブルク。赤い色(Rot)をしたブルクなのでローテンブルクと名づけられたのだ。他のローテンブルクも赤いブルクだからローテンブルクという名前なのだ。

 観光地として日本人には有名なロマンティック街道のローテンブルク・オプ・デア・タウバーとドイツ木組み街道のローテンブルク・アン・デア・フルダ等の他のローテンブルクこちらからどうぞ。

 チューリンゲンのキフホイザー山地にあるブルク廃墟。赤い砂岩を使用しているので赤い城となっている。 モダンに増築されたフォアブルクの奥、山の突出部にケルンブルクがあり、城壁を囲むように堀がある。ケルンブルクは卵形をしており、攻撃側部分には巨大な円形のベルクフリート。直径は12m、壁の厚さは2.7m。

 1116年、もしくは1103年から1150年にかけて、クリスティアン1世・フォン・ローテンブルクによって建てられた。
 ローテンブルク家が1200年ごろに途絶えた後は、バイヒリンゲン伯フリードリッヒが相続した。
 シュタウフェン家とヴェルフェン家が争いをしているとき、この城は重要な役割を果たし、1212年に皇帝オットー4世軍はこの城を占拠した。
 13世紀以降はチューリンゲン方伯圏となり、1300年ごろ、この城には有名なミンネゼンガーのクリスティアン・フォン・ルピンが訪れている。
 14世紀からはめまぐるしく城主が変わり、1576年に最後の伯爵家が途絶えた。それ以後は放置され、廃墟となっていった。
 19世紀にピクニック休憩所が設けられ、シニア雇用により維持管理が行われており、私有地らしい。

Burgruine Rothenburg

写真を見ると、かつては立派なブルクであったことが想像できます。
posted by ぺんた at 14:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 古城たち(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月30日

キフホイザー(Burgruine Kyffhäuser)

 皇帝フリードリッヒ1世赤髭王(バルバロッサ)が眠っているという伝説のある帝国ブルクの廃墟。フリードリッヒ1世は十字軍の遠征途中、イタリアの川で溺死したのだが遺体は見つからず、キフホイザーに眠っているという伝説が生まれた(但し伝説は孫のフリードリッヒ2世と混同されているというか、融合しているのだが)。ここが帝国ブルクであったことの意味を、バルバロッサ伝説が物語っている。
 ロマン主義の時代であった1890から1896年にかけて建築家ブルーノ・シュミッツによりヴィルヘルム1世とフリードリッヒ1世の彫像が建てられた。

 城はオーバーブルク、ミッテルブルク、ウンターブルクの3つの部分から成っており、全体で全長608m、幅60mである。
 オーバーブルクがケルンブルクであり、居住階は暖炉のある3階、守衛のための張り出しの入り口は10.5mの高さのところにある。環状城壁の高さは10m。井戸の深さは176mもありドイツ一。
 ミッテルブルクは四角形で円形の塔がある。
 ウンターブルクからミッテルブルクに抜ける通路がある。円形の塔の直径は11mある。ブルクの北城壁に居住塔と礼拝堂の複合建築物がある。1433年に後期ゴシック様式に姿を変えたが、保存状態は良くない。
 中世の頃、赤い禿山の上に建てられた木製の施設だった。石材も赤いものが使用された。赤は皇帝の権力を表している。ここは軍事的な目的だけではなく、皇帝の権力を示す目的も持っていた城なのだ。

 ブルクは10世紀にティレダ宮を守るために建てられた。この時国王ハインリッヒ5世とザクセン公ロタールが争っており、1118年に攻撃されたことがある。
 シュタウフェン朝時代、ここは帝国領であり、1150年以前には巨大なブルクが建築されていた。
 皇帝ハインリッヒ6世とハインリッヒ獅子公がブルク下のティレンダで和解した。国王の死後ブルクの重要性はなくなり、1222年に帝国ミニステリアーレのミルデンシュタインの領主が城主として就いた。
 1290年、ハプスブルク国王ルドルフがバイヒリンゲン伯をキフハイゼンの城伯に任命した。
 その後たびたび城主が変わり、1435年に崩落した。

Kyffhäuser Denkmal
posted by ぺんた at 21:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 古城たち(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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